「新劇場版ヱヴァンゲリヲン:破」は、「サマーウォーズ」に比べて新しいようで、そうでもなかった。

アサです。

「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」と「サマーウォーズ」について考えていたら、サマーウォーズに比べて新ヱヴァは作り方そのものが新しいなーと思ったけどやっぱ新しくないと思った話。

どちらも大好きな監督だし、楽しみにしている作品だけど*1、ネットで感想をいろいろ読んでみて、新ヱヴァに湧いてくるこのワクワク感と、サマーウォーズに対するちょっとがっかり感が引っかかったのでこれを書いてみました。


まず、テーマの違いが最初にひっかかった点。

作品を観ずしてこんなことを語るのはナンセンスだと分かっているが、どうにも僕は、サマーウォーズに対する「現代に感じることがあって、それを一般的に分かるように投げかけるスタンス」での細田氏の言動に、近年の宮崎駿の陰を見てしまう。世の中、最近こんなだけど、こういうのが良いんじゃない?みたいな。そして僕は近年の宮崎作品がどうにも苦手なのだ。これがサマーウォーズに対するプチがっかりの理由。

対して、庵野氏のテーマは旧エヴァから変わっていない。個人と世の中との向き合い方、つきあい方。世の中うんぬんの前に、無限に広がる個々の内がテーマです。今の僕にはこっちのほうが、身近だし、興味がある。


次にネットでは両作品を取り上げて、セルフリメイク、貞本氏によるキャラデザなどの共通点が指摘されているけど、個人的には、同時代性の取り扱い方の違いが興味深いところ。

「つらいけどがんばろうよ」とか「家族って大事だよね」とか、メッセージ自体はどちらもすごく普遍的。ただ、そのメッセージをターゲット層に伝えるにあたって、おそらく、身近なモチーフで興味を持ってもらうため、細田氏は「アバター」、庵野氏は「二次創作、MAD」を作品に取り入れてると思う。

細田氏は、地縁や家族といったローカルなネットワークの対比として、アバターが活躍するグローバルネットワークを扱う。ストーリーのアウトラインがおおむねウォーゲームをなぞるならば、作品の構造はきわめて古風だ。その中でおそらくアバターは、古風なテーマと受け手の架け橋としても機能しているんじゃないかなーと。

で、サマーウォーズにおける同時代性の象徴であるアバターの扱いが、あくまで物語に内包される要素に過ぎないのに対して、かたや庵野氏は、彼なりの同時代性のモチーフであるところの二次創作とMADを、作品そのものの枠組みとして取り込んでいるところが一番おおきな違いだなーと思ったわけです。

ファンによる二次創作で幾つも生まれた「ザザーン」もの、逆行ものの一つにすら感じてしまう、微妙に設定を変えて繰り返す物語。戦闘シーンで流れる「今日の日はさようなら」「翼をください」は唐突なようでありながら、歌詞の内容はシーンを代弁している。まるでMADの一形態。

僕は、最初これらを聞いて非常に新しいと感じた。でも、気づいたのだ。旧エヴァは同時代性のキーワードとして「ライブ感」を掲げて、作品の制作過程に取り入れていたじゃないか(後付けかもしれないが)。よく言われる「ループ」についても、テレビ版と劇場版でパラレルに迎えた結末は、新劇場版と構造が同じと言っていいと思う。

つまり、新劇場版ヱヴァンゲリヲンの新しさは、すでに旧エヴァで提示されている。新しくないのだ。あれ、それってガッカリじゃ?

いやいや「Q」とそれに続くであろう結末が楽しみでしょうがない。新世紀エヴァンゲリオンで続く10年のアニメに影響を与え続けた、時代を取り入れ、先取りする庵野氏が安易な二次創作的作品で終わるわけがない。どれだけ壊してくれるのか、期待しています。

*1:アメリカ在住のため未視聴